長倉穣司 (トランペット奏者) Webサイト

寄稿「僕のラッパ人生」

僕のトランペット人生も早いもので半世紀近くになります。この記事を書くにあたりこれまでの出来事を思い返してみると、様々なことが懐かしく思い出されます。

特別音楽に興味もなく、小学校時代の音楽の成績も芳しくない僕がトランペットを始める事になったきっかけは、中学生の時です。入学した年にブラスバンドができる事になり、音楽の先生にやってみないかと勧誘されたのが始まりでした。

トランペットかコルネットどちらか選ぶ事になった時、その形に魅せられた僕は迷わずコルネットを選びました。当時(1965年)日管のニッケルメッキのコルネットでした。たいした苦労もなく音が出た事を覚えています。その後、音楽の先生が初心者にも吹きやすいようアレンジした曲をバンドで楽しみながら徐々に吹けるようになり、次第に虜になっていきました。

折しもその頃、巷では「夜空のトランペット」が大流行していて、僕もレコードを買い毎日飽きるほど聞いたものでした。演奏はニニ・ロッソが定番だったのですが、僕の買ったのはジョルル・ジューバンのもので、どちらかというとこちらの方が好きでした。

このトランペットの魅力的な音の秘密はビブラートだ!と思い、レコードプレイヤーの回転数を落としてビブラートのかけ具合を研究して真似したりしました(当時のレコードプレイヤーは、レコードによって回転数を変えられるようになっていた)。後に音大受験のレッスンの時にこのビブラートを叱られるになるのですが…。

高校2年の時音大進学を決意、武蔵野音大を目指すべく当時東京交響楽団の首席奏者だった上原桂司先生にレッスンを受け始めました。レッスンでは初めてアーバンという教則本を一から習いました。この頃です、何でもかんでもビブラートをかけて大変怒られたのは…!

それまで専門的な音楽教育など受けて来なかったので、ピアノやソルフェージュなど一からやらなくてはならず、高校の音楽の先生に習いました。家にピアノなど無かったので、母の手弁当持参で早朝から学校に行き、音楽室のピアノで練習させてもらいました。

また受験に向け、武蔵野音大の野崎先生のレッスンを受けるようになりました。とても温厚な方で、出来の悪い僕をとても我慢強く丁寧に教えて下さいました。

そして昭和46年の春、無事に武蔵野音大に入学。担当の先生は、新任の戸部先生でした。現役のオケプレイヤーとして活躍されていた先生はまぶしく、またその教えもすべて新鮮なものでした。教わったのはアーバン、クラークのみならず、プロになるための重要なオーケストラスタディ、そしてそれに不可欠な移調読みを徹底的に叩きこまれました。特にC管を3年から勉強するようになってからは、エチュードもC管でinB読みで吹く事を要求されました。曲が進むにつれ、♯や♭がどんどん増えても容赦なく完璧に読めるまでやらされました。おかげでC管でinBの譜面を読む事が何の違和感もなく出来るようになりました。時にはアーバンのデュエットを先生と一緒にinCis、inFisなど全調で吹けるよう要求されました。今になってもこの事は本当に感謝しています。

4年生の時、文京公会堂(今はもうない)で山田一雄指揮のチャイコフスキーの交響曲第4番を新星日響で聴く事が出来ました。その素晴らしい演奏はもちろん、トランペットの素晴らしさに釘付けになってしまいました。そのトランペットを吹いていたのが津堅さんだったのです。僕の同級生でトロンボーンの藤沢君(後に名フィル)はすでにこのオケに在籍していたので、彼のおかげで運良く津堅さんを紹介してもらう事が出来、トラにも使って頂けるようになりました。

その後、これまた運良く新星日響に入団する事が出来、憧れていた津堅さんと一緒に演奏することが出来るようになったのです。最初の頃は、まだまだ不慣れで仕事をこなすのに必死でした。あるバレエの仕事の時、リズムがわからず出る所を間違えて横から足で蹴られた事もありました。津堅さんにはラッパのみならず公私にわたり大変お世話になりました。

しかし間もなく津堅さんは東京フィルに移られる事になり、新星でご一緒出来たのは半年ぐらいだったと思います。僕はまだオケに入ってたったの半年で、1stを吹くことになってしまったのです。

まだ慣れない最初の頃のエピソードで、「アリアの夕べ」の練習の時の話です。蝶々夫人の「ある晴れた日に」を初めて吹いた時、どうしてもわからない箇所があり、休憩時に指揮をされていた三石精一さんに頭を下げ教えて下さいと言いましたら、嫌な顔一つせず(内心呆れていたかも)、譜面に鉛筆で譜割りを書き込んで下さいました。

そんな中、初めてヘンデルの「メサイア」を吹いた時の指揮者が何とあの世界一棒がわかりにくい山田一雄先生!ソロは何とかうまくいっていたのに、何を振っているのか次第にわからなくなり、こちらもだんだん自信がなくなり迷子になりそうになりました。終わったあと、胃が痛くなりしばらく動けなくなったのを覚えています。

大学4年で入団して以来20年、若さと勢いで何とか首席を務めさせて頂きましたが、自己流の限界がだんだんと見えて来ました。色々考え悩んだ結果、下に降りる事にしました。それまで上のパートしか知らなかった僕は、下吹きというものが全く違う役割と技術を求められる事を知り、これまた一からの勉強となりました。しかし1stだけで終わっていたら、2ndの難しさは勿論ですが、面白さ、楽しさなどは知る事が出来なかったでしょう。

そして2001年、新星日響と東京フィルの合併という大きな出来事がありました。それまでの歴史や伝統、演奏スタイルなど全く違うオケが一緒になったことは、トランペットセクションにおいてもそれは大変で、色々勉強し直さなければならない事がたくさんありました。自分の技術的な事においても、一から奏法を見直したり、セクションの仲間からも度々貴重なアドバイスをもらいながら、今自分が出来る事だけはやろうという気持ちで練習しました。そうこうするうち、仲間達に迷惑をかけながらも少しずつ自分なりに結果を出せるようになったかなと思えるようになりました。相変わらず緊張の連続でしたが、少しずつ楽しめるようになったと思います。

そんな毎日を夢中で過ごしていると、時間の経つのは早いもので、あっという間に昨年2012年、定年退職の日が来てしまいました。最後の演奏会は、2012年7月22日、辻本君との「新世界から」でしたが、感無量の演奏会となりました。

定年の少し前に、楽器店の方から電話があり、楽器の選定をして欲しいとの事でした。どなたのですか?と尋ねましたが、僕のファンのアマチュアの方で、是非僕に選定して欲しいとの事。それ以上わからないままお店に行き、「最近のバックの楽器も良くなったなあ」と20本位の中から非常に良いと思った一本を選びました。その後、現役最後の演奏会のあと、セクションがパーティーを催してくれた折、会も盛り上がったその時、セクション一同が僕にプレゼントをと、パーティーに出席して下さった人達全員のサインが書き散らされた楽器ケースが運ばれて来たのです。「長倉さん!先日楽器選定されましたよね!これがその楽器です!」と言われ、僕は腰が抜けるほど驚き、また感動してしまいました(一生懸命ちゃんと選んでおいて良かった)。本当に粋な計らいでした。

そして無事定年を迎えることができました。とはいえ、ラッパの方はまだまだ、本当に吹けなくなるまでさらい続けたいと思います。

(日本トランペット協会会報 掲載)

中学生の頃

中学生の頃


27歳、新星日響の演奏旅行にてトランペット・セクションの演奏風景。手前から中川氏、仲村渠氏。


2012年7月22日、東フィルでの最後の演奏会。本番前リハーサルでの風景。


トランペット・セクションの皆さんと。


東フィルでの最後の舞台。Bunkamuraオーチャードホール。指揮は渡邊一正氏。ドヴォルザーク:交響曲 第9番 「新世界より」